気づきそのものとしての私
「私がいない」ということの意味は、
身体の中に居ると思っていた「私」の実体が見つからないということであって、
私という感覚がなくなることではない。
「私」として、何を指しているのか、そのことをはっきりさせることである。
同一化が問われているのだ。
エゴは、分離した断片を私と呼んでしまった同一化のことである。
私という感覚が、エゴであるわけではない。
ラマナ・マハリシが「Who am I (私は誰か)?」と、自己尋問(self-inquiry)を勧めた。
気づきそのものを、私と呼んでみてはどうだろう?
そして、すべてが気づきそのものでできているということを、吟味してみよう。
気づきそのものが私である実感に、十分に憩ってみてはどうだろう?
そのリアリティーがもたらす心の平安に、心底幸せを堪能してみてはどうだろうか?
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